#1「21歳で妻子持ちと駆け落ちした私の話」

忘れられない夜の話をしよう
忘れたくとも、いまだ 忘れられない夜がある。
「探さないで」と書き置きだけを残し家を飛び出したあの日。
私の生き方は、すべてが変わった──
駆け落ちすると決めたのは夜だった。
正確には夜中なのだけれど。
どれだけの覚悟を掻き集めても、あの日の決意に遠く及ばない。
当時の私は21歳で、自分が今まで築いてきたものをすべて捨ててもいいと思えるほど、一世一代の恋をした。
その想いは、今も変わらずこの胸に息づいている。
駆け落ちすると決めた日
2005年6月1日。
実際に駆け落ちする一週間前の夜、彼は言った。
「一緒に逃げよう」
軽のワンボックスの車の中、彼は私をしっかと抱きしめながら呟いた。頭の中を走馬灯のような早さで様々な考えがよぎる。
家族、友達、学校、立場……永遠と思えるほどの長い時間、私は……本当に一緒に逃げるか逃げまいか、悩んだ。
家族は?
友達は?
大学は?
就職は?
抱きしめられながら渦巻くこれまでの人生。
永遠とも思えるほど長い時間悩んでたように思うけど……でももしかしたら、現実ではほんのまばたきほどの一瞬だったかもしれない。
「いつ?」
気が付いたら、私はそう聞き返していた。
とんでもない決意に心臓がバクバクしていた。
それは、抱き締めていた彼からも伝わってきた。
これからどうなってしまうんだろう。
現実なのに現実じゃないみたいな不思議な気分。
ただ「なんとかしなくちゃ」とだけ思っていた。
21歳の現役大学四回生の小娘はただただ若く、一途で、無謀だった。
それでも後悔したことは一度もない。
その瞬間をやり直せる機会がもう一度訪れたとしても、きっと私は同じ選択をする。
彼と過ごした時間は、それほど幸せだったから。
静かに、
誰かに、
何かに、
煩わされることなく、
新しい土地でお互いだけを頼りに送った日々は、
どれほどの価値があったか。
本当に苦労はしたけれど、私は「彼を選んで良かった!」と今でも胸を張って言える。
駆け落ちに必要なもの……愛、金、そして覚悟
それは愛だ!!
というのは大前提だし、当たり前すぎるので置いといて。
絶ッッッッッッッッ的に必要なものがある。
それは金だ!!!!
断言しよう。お金は多ければ多いほどいい。
これを読んでる人が駆け落ちする気があるならよく覚えておいて欲しい。
お金は多ければ多いほどいい!(二度目)
とにもかくにも駆け落ちには金が要る。
私の場合だけど、私はその頃ちょうど車の免許を取得しようと現金を二十万ほど貯めこんでいた。
アンド、おかんが私のためだけに作ってくれた、長年のお年玉をコツコツ貯めてくれていた定期預金があった。
あの定期預金はおろすのに若干苦労したな~。出立前に一番気をつかった事件と言っていい。
祖母の(我が家は祖父母と同居の六人家族だった)の目を盗んで、家族の通帳をまとめて仕舞ってある引き出しを音を殺すように開けた。あの悪いことを自覚しながらスーとゆっくり引いた絶妙な力加減を、私はまだ覚えている。
通帳を一枚一枚確認し探しながら、私の名前を見つけた時のあの罪悪感といったら。
だけどもここで問題があることに気付いた私。
──やべぇ。認印がどれか分からねぇ……。
ここにある数本のうちのどれかだろうとは予想はつく。けれどどれも同じような気がして。
バイト先の普通預金から金おろす以外の用事で銀行なんてほとんど行かんし。
どれが正しいのか当時の無知な私にはさっぱり判別出来ない。
焦りながらも印鑑を見ていた時、台所から「よっこいせ」と声が聞こえた。(死角にはなってたもののひとつづきの空間になっていた)
……おばあちゃんにこんなトコ見られたらまずい。
と思った私は、とりあえず印鑑全部を引っ掴んで自室へ逃げ帰った。
部屋でゆっくり通帳にある見本と照らし合わせてそれらしいのを二、三本選び、そしてもう一度祖母の目を盗んで他の印鑑を仕舞いに行った。
そして私は二、三本の印鑑と通帳を握りしめて、すぐさま銀行へと向かった(大学はサボった)。
「この定期預金の解約をお願いします」
番号札を取って、自分の順番が来て、窓口のお姉さんにそう言った。
声は不自然じゃなかったかな?
これは不審な態度じゃないよな?
今の自分は解約に来た客として普通なのかな?
まだ社会を知らない上に、そういったことをした経験もなくって、なおかつ「親に隠れて勝手に定期をおろす」という後ろ暗さでいっぱいだったから、めちゃくちゃ緊張していた。
銀行員のおねえさんは「認印はお持ちでしょうか」というごくごく普通の流れで言ったんだろうけど、その時の私にはまるで麻薬を警察に提出するような心地だった。
試合前みたいに心臓がバクバクしていた。
一回でも間違えたらどうなるか! と内心ずっとプレッシャーを感じていた。
今なら「どれか忘れちゃって~」と、二、三本まとめて渡すだけの度胸があるのにな。
その時の私は「一発で当てないと通報されるんじゃないか」と気が気でなくて、とにかく緊張していた。
そんな私に銀行のおねえさんはのんびりと「どうぞ掛けてお待ちください」と言った。
ここで見届けたいのに、と思ったけど、怪しまれたくなかったので私はすごすご離れてソファへと腰を下ろした。(今だから思うけど目の前で待たれるほどおねえさんにとって嫌な時間もなかろうて)
余裕がないせいか他に考え事もできなくて、そわそわしながら待ったあの時間はただただしんどかった。
私が集めれた全財産
数分後、私は淀みなく呼ばれた。
ドキドキしながら窓口に近づき、トレイにちょんと置かれたお金を見た瞬間、その場で小躍りしたかった。
お姉さんの機械的な声が天使のさえずりに思えた。
私は誰かに連絡されることも家に知られることもなかったことにむちゃくちゃホッとした。
胸の中でこれでもかとガッツポーズを決めてから私は置かれた二十万を受け取った。
一緒に添えてくれた封筒にそのお金を入れてカバンにしまい、来た時の足取りとは反対にウッキウキで銀行の自動ドアを出た。
先月まで稼いだバイト代10万。
コツコツ貯めてきた免許取得用現金10万。
長年貯めてきた定期貯金20万。
今まで集めてきた漫画・同人誌・CDを売った金10万。
合計してザッと50万。
いっしょに逃げようと言われ二日かけてやっと集めた私の全財産。
今思えば少ない。めっちゃ少ない。
でも大学生なんてそんなもんだ。
金なんて全部大学に入ってたクラブ(体操部)で散財してたし。
でも私には過去持ったことのない大金だったな。
あと二日かけたところで価値のあるものを持ってるわけでもないし、働いて稼ぐ方法もあるわきゃないしで、実質これでもう出立するしかなかった。
彼の軍資金について
「いくら用意できた?」
出発まであと四日と迫った夜中。
バイトをあがって送ってもらった車の中で、彼にそう聞かれた。
駆け落ち資金の相場なんて全く分からんが、私は五十万でも足りないだろうと思っていた。
けれどどう頑張っても、私にはもうこれ以上用意できそうにない。
小さく五十万と言い、付け足すように「ゴメンね」と呟いた。
もンの凄く申し訳なく思ったなぁ。
だって社会人と大学生だもん。
それでなくても彼は店長職をやってたし、稼いでいて持てる金額が違うだろう。
私は消え入りたいほどに恥ずかしく、申し訳なく思った。
それを聞いた彼は、そんな様子なんておくびにも出さずなんでもない声で「そうか」と言った。
で、その日はお別れのキスをしてバイバイ。
残り時間は特にしなきゃいけないこともなかった。
持っていくものを考えてまとめるくらいで、なにするべくもなくそわそわして過ごしていたと思う。
私の方は。
だけど、彼の方はどうやら違ったらしい。
貯金はしておくに越したことはない
あとで聞いた話だけれど、私が用意した「50万」を知って彼は焦っていたらしい。
詳しくは教えてくれなかったけどこの時の彼には色々あったらしく、けっきょく30万ほどしか集められなかったらしい。
たかが大学生と思って侮っていたんだろう。
彼はどちらかというと「宵越しの金は持たない!」主義で、対する私は「貯金はあって困ることはない」という親の教えから普段からコツコツ貯めこむ派なのだ。
彼は「アイツの集めてきた金額が俺の予想より多い。年上の俺が金額で負ける訳には……!」と、思ったらしい。
手元にあるプレミア付きのDVD(本当は売る気がなかったとみえる)などを必死で売りさばき、どうにか同じ金額用意してくれた。
そのずっと後のことになるのだけど、彼が疲れたように私にお金を集めた経緯を語ってくれたのをよく覚えている。私はその時の彼が妙にいじらしくて可愛くて、時々思い出しては笑んでしまう。
経験上言わせてもらうけど、駆け落ちの荷物は少ない方がいい。
今思えば物欲の権化のような彼の性格で、私は本当にお金に苦労した。
手放すことができない彼は、ある意味で覚悟が足りなかったと言える。
私は駆け落ちしたことに後悔はない。
本当にない。
愛があったし、一応どうにかの金はあった。
だけど、どうか覚えておいてほしい。
駆け落ちをするにあたって、一番大事なのは、私は「覚悟」だと思う。
愛さえあれば金さえあれば大丈夫、なんてとても言えない。
揺れない。ブレない。迷わない。
ただでさえ「駆け落ち」とは人道に悖(もと)る行為なのだ。
より多くの道を踏み外せばそれと同じだけのしっぺ返しを喰らう。
間違いなく喰らう。
まぁハガレンで言うところの「等価交換」だと思っているのだけれど。
私たちの幸せは、多くの人の不幸を踏み台にして築き上げたものだということを、生涯忘れてはいけないのだ。
駆け落ち前夜
実家暮らしの頃、私は母とベッドを並べて寝ていた。
ウチの母と父はあまり仲が良くないからだ。
出発日前日の夜。いつものようにおかんと寝入り前の会話をしていた。
なぁんてことない普通の会話をしてると次第に眠くなってきて、でも明日からもう二度と会えなくなるのかと思うと胸が詰まるみたいに感慨深くなってきて。
きっとこれが最後なんだろうなぁと噛みしめるように話したあと、寝入る直前にぽそっと「元気で」と言った。
不審に思ったおかんが会話を続けようとしたけど、私は寝返りをうちながら「おやすみ!」と、もう話す気はないと言わんばかりに声高にわざと打ち切った。
あの瞬間。
その瞬間、きっと、母であるあの人にはなにかいつもとは違う不穏なものを感じたんだと思う。
そういう妙な雰囲気になったのを覚えてる。
あの勘の良さは「さすが母親」としか言いようがない。
駆け落ち決行の日の朝
そしてとうとうXデー。
2005年の6月7日の火曜日。
駆け落ち当日の朝。
天気は晴れ。爽やかな風が吹く涼しい日だった(我ながらよく覚えてる)。
いつもの時間に起き、いつものようにご飯を食べ、いつも家を出る時間の七時五十分。
いつもよりちょっと大きなバッグを下げて玄関に立つ。
不審がられなかったのは、部活動である体操部のおかげだと思う。
この日、家を出る直前、胸に不思議な感覚が湧いてきた。
『ああ。もう、二度と、この家の敷居を跨ぐことはないんだろうな』という──悲しさ、いたたまれなさ。
嫁に行くというのはこんな感じなんだろうかとぼんやり思ったもんだ。
到底普通の嫁入りじゃないことをしようとしているのにおかしなことを思ってるなって思うけど、でもそう感じた。
でも、この時の、この心情を、形容できる言葉を私はまだ知らない。
泣きたいような、惜しむような……後悔とはまた違った寂寥を抱いたあの覚悟をどう言おう?
きっと体感した者にしかわからない。
そして私はいつものように「行ってきます!」と言った。
………きっといつも通りの声で言えたと思う。
私はこの気持ちが家全部に、家族に、今ここに居ない家族にまで沁み渡るように声に想いを意識を乗せたつもりだ。
そうして私は──二十余年住み慣れた家を出た。
駆け落ち必須アイテム
「お待たせ!」
デートの待ち合わせに来たみたいに、彼に走り寄って笑いかけた。
未来の夫は、家の裏にあるセブンイレブンの駐車場に車を停めて待っててくれていた。
おんなじように微笑み返してくれながら、彼は私の荷物を軽のワゴンのトランクに乗せてくれた。
細々したものは一週間かけて彼の車に運び込んでいたけど、厳選して持ってきたはずのこれらが意外と使わないと知るのは、もう少し先になってからだった。
「まずはお互いのケータイショップだな」
彼はドコモ。
私はボーダフォン。
車に乗り込み一時間後には携帯を解約していた。
そして、手元には前もって彼が買ってくれていた、ツーカーのプリペイド携帯が二つ。
新天地に絶対必要なのは、足のつかない携帯だ。
これがないと水道・ガス・電気やらの契約ができないから。
おんなじそれを色違いのミニマッキー(ちゃんとボールペンになっていた)のストラップを付けて互いのカバンにしまった。
私が赤。彼が青。
お揃いのなにかがとても嬉しかった。
当時、マイナンバーカードなんてものはなくて。
携帯一つさえあればどうにかなったと思う。
あとは保険とかあるけど、私たちはとにかく知識がなかった。
だから色んなしなくていい苦労をしたけれど、駆け落ち先で国民保険はあきらめたほうがいいので仕事先が決まったらそこでさっさと社会保険に入ることを薦めておく。
だけど……マイナンバーは持て余すと思う。
すぐに戸籍を動かすわけにもいかないから、現在駆け落ちするとなると見つかるリスクは高いと予想される。
今はそういう無責任な逃避が許されるシステムじゃない。
私たちは時代が良かった。
運が良かった。
二人きりの結婚式
それじゃあ行こうか。
車に乗って。
何処ともしれない二人だけの場所へ。
その日は本当にいい天気で──「今日は死ぬのにいい日だ」と思うほど空が青かった。
その夜、海沿いを走らせていた車を停めて月の下へ出た。
「誓います」
参列者は海。
神父は月。
闇にけぶる海風にはやしたてられて。
二人きりの結婚式はおごそかに執り行われた。
月夜に光るおそろいの銀の指輪。
潮騒がザザンザザンと終わることのない拍手を打ち鳴らしていた。
普通なら神父さんが言うはずの誓いの言葉を自分たちの口から言うのは妙に気恥ずかしく、けれどお互い真剣だったから、なんだか可笑しくって、なぜだか泣きたくなった。
春でも夏でもない六月の夜の潮風は冷たく、けれど互いの手の温もりは灯台のようにしっかと行く先を指し示しているようだった。
私のすべてを懸けて。
これからは私もあなたを守るのだと決めた夜。
そして、ずっと言いたかったあの言葉を、これからは言うことができることに喜んだ。
瞳を閉じる前に「おやすみ」と言える。
瞳を開いて一番に「おはよう」と言える。
不倫関係にあった私たちが、この言葉にどれほど憧れを抱いたか。
もう少し長く抱き合っていたかったけれど、防波堤へと飛沫をあげる波に急き立てられて式は一瞬で終わりを迎えた。
ポイント・オブ・ノーリターン
今頃、お互いの家はどうなっているのだろか。
私の家族は「探さないでください」と書かれた私の置き手紙を読んだかな。
あなたの家庭は自分の欄だけ正確に書き込まれた離婚届に気付いたかな。
当然だが連絡したくともするわけにはいかず、ただ悶々と重いものを腹に抱えていた。
月のスポットライトを浴びて行われた漆黒の誓いの儀式のあと、海沿いを少し車を走らせたらラブホテルが見えた。
「今夜はあそこに泊まろう」
どちらからともなく言い出した。
適当に入ったスーパーでやっすいいお弁当を買って、二人ドキドキしながらカギを受け取りその部屋番号へと目指し歩いた。
過去、ラブホテルにはいい思い出しかなかった。
閉ざされたあの部屋だけが、唯一彼と抱き合える場所だったから。
清潔な部屋で思うさま愛し語らう。
見たい映画、豊富な有線、選べるシャンプー、充実したルームサービス。
あっという間に過ぎる時間だけが、いつも本当に悔しかった。
初めて一晩共に過ごせるなんて!
不安はあれども私は喜びと期待に胸をこれでもかと膨らませていた。
──だけど、その夢は現実に一瞬で砕かれる。
鍵を開けラブホの部屋扉を開ければ目の前すぐに階段があった。
五十センチもないドアの幅そのままの階段。
シュールだ。壁のような階段だった。
予想外の光景に二人少し時を止めた。
なんかおかしいなとその時点で二人とも感じた。
それでも今更別なホテルに行くわけにもいかず、私たちはその十段以上ある階段を登り切った。
部屋は薄暗かった。
広さは八畳ほど。
正直今まで行ったどのラブホテルより狭い。
妙な雰囲気で、空気が淀んでいた。
換気扇を付けるとむやみやたらにうるさくて、正体のつかない匂いが充満した個室があまりに恐ろしかった。
でも私たちは何も言わず弁当をつつきだした。
胸が詰まってるというか、なにかが膨らんでいっぱいだというか、とにかく食べにくかったがお茶で流し込んでなんとか食べた。
食べても気は休まらず、気分を変えたくて有線のチャンネル表を見た。
いつも私たちが利用するホテルはAからEまでの枠があり、一つの枠でも三十チャンネルはあった。
軽く百を超えるチャンネルから私たちはいつも洋楽のブルースを選んでいた。
けれどそこの有線は一枠のみで、十ほどのチャンネルしかなかった。
仕方ないから、とりあえず洋楽を選んだ。
──それがまた酷い。
何故か薄っすらと聞こえる演歌。
ポップなメロディの後ろから何処からともなく聴こえる演歌。
何故か演歌。
それがやけに怖くて怖くて、違うチャンネルに変えてみたものの、もやっぱりなぜか演歌が聞こえてくる不思議。
ただただ怖い。
どうしようもなく怖い。
ただでさえ不安でたまらないのにこの環境。
どういじっても演歌はその存在を主張してくるので有線は消した。
無言の部屋はやっぱり気持ち悪かった。
せめて大好きな音楽が欲しかった。
今のように音楽が持ち運べる時代でもなかった。
珍しくテレビも置いてなかったのでずっと無音。
あれは……本当に辛かった。
音楽は諦めてお風呂に入ろうとなった。
会話は弾まない。
だんだんと葬式のような空気になりつつある。
不安というバケモノが二人の心を少しずつ食んでいるのが分かっていたのに、私たちはそこから必死に目を逸らし違う話をした。
ラブホテルの風呂というのは当たり前だけど二人で入ることが想定されているため、風呂桶も洗い場も広い。
掃除も設備も気遣いも行き届いていて、家のお風呂にはない楽しみ方がある。
イチャつくための諸々もそうだが、本当に良い所だと風呂テレビなんかも付いていて二、三時間入っても飽きることがない。
だけど……ああ、だけど。
そこの風呂は尋常じゃなく……もう思い出すのもうんざりするほど尋常じゃなく、ボロかった。
何年前だとツッコみたいほどの古いデザイン。
所々剥げた紺のモザイクタイル。
ノズルがガタガタのシャワー。
垢のこびりついた浴槽。
薄暗く不気味な光源。
張り詰めていた糸がふつりと切れるには充分で。
表面張力で耐えてたコップの水が溢れるみたいに我慢が出来なくなった。
あまりのおそろしさに吐き気が込み上げてくる。
だけど……それを必死でこらえて彼に抱き付き「怖い」と泣いた。
彼は何も言わず頭を撫でてくれた。
この時、彼も相当な恐怖を感じていたと、のちに語ってくれた。
自分たちの立場をまざまざと思い知らされ、それでももう戻ることのできない現状に心が砕かれまいと無理矢理に抱き合った。
風呂からあがればもう時間は11時を越えていて。
明日のため、現実逃避のため、ベッドに入って寝ようと努力したが結局二人とも一睡もできなかった。
色んな緊張で体は疲れていたはずなのに。
………それでも、私たちは最後まで口にしなかった。
「帰りたい」──と
いや、出せなかったのかもしれない。
下唇を噛むように、暴れだしそうな心を必死で押し殺して、でも音にしなかった。
それまで……ただの一度もそんなこと思わなかったのに。
ああ、私たちはここでやっと──
今やっと。
事の重大さを知ったのだった。
自分のしでかしたことを
罪の重さを
私はここで初めて後悔した。
他の誰が分かるだろう。
この焦燥を。
この重責を。
きっと世界の誰にもわかるはずがない。
私だって、いまだあの夜以上の不安を知らない。
後に引けない。
帰る場所もない。
孤独を抱え、世界に二人ぽっちになった男と女の
罪悪感と恐怖。
ポイント・オブ・ノーリターン。
あの夜はまさに──
私たちの「回帰不能地点」というにふさわしかった。