#19「ウチのお金事情」

前回の復習
人生で最高のデートを終えたその翌日、私と店長は職場である焼肉屋の厨房で、前日デートの思い出話を楽しんでいた。
周りに人が誰もいないと思っていたが、しかし、物陰からその会話を聞いていた者がいたのだ。
店長の上司にあたる社長だ。
……その日の夜、店長は私に「一緒に逃げよう」と告げた。
お金の話をしよう
最高のデートが5月31日。
社長にバレた日が6月1日。
仕事は日を跨ぐから、駆け落ち告知は6月2日で。
その時に決めた出発時刻は6月7日だった。
あまり、時間がなかった。
あの、悩みに悩んだ永遠のような一瞬は、今でも後悔してないけれど。
それでも、人生を大きく左右する分かれ道を、あの瞬間で答えを出した自分は、少し変わっているかもなぁと思う。
でも決めちまったら、あとはやるしかない。
話はブログの冒頭に戻るのだけれど、それでも当時のことをゆっくり語りたい。
特に……「金」について。
我が家について
私の家は貧乏だ。
普通に暮らしていれば、そこそこだっただろうけど、私が高校の時、父が脱サラして収入がほぼない状態になってから、急に拍車がかかった。
当時の家族構成は、父と母と私と弟と、母の祖母と祖父と6人で暮らしていた。
家族全員が、祖父を嫌っていた。(実の娘である母でさえも)
社会に馴染めず在宅ワーク(要は内職)しか出来なかった祖父は、雀の涙ほどしか年金がなく、そのくせ、かなりの浪費家だった。
あと、妙に人を不快にさせる能力に長けていた。(なんだそれと思うが、そうとしか言いようがない「なにか」を持っていた)
……ろくでもない。
そして大黒柱である父は、私が高校1年の時に「俺は漫画家になる!」と息巻いて手取り40万あった会社を辞め、フリーランス(当時はこの言葉はまだなかった)となった。
普通タイミングとかあるだろう。
まったく、ろくでもない。
サラリーマン時代の父は、会社所属のイラストレーターだった。
本当に絵は上手い。
上手いだけだが。
自分本位な父は、退職金のほとんどを貯蓄もせず、パソコンを買うとか自分のために全部遣った。
そして愛煙家で酒好きだった。
父は(組織に所属していれば)よく稼いだが、浪費家だった。
金の管理ができない。しない。
父も祖父も遣うことしか考えていなかった。
家計は火の車だった。
これが血か、宿命か
男がろくでなしばかりなせいか、ウチの家は女が強い。
代々強い。
めちゃくちゃよく働く。
一家を支えるのは常に女である。
これは例に漏れず私もそうだった。
嫌な血だ。
パートナーたる男が考えなしに金を遣うので、母も祖母も倹約家だった。
(倹約家にならざるを得なかった)
昼は会社員として経理事務をしながら、夜はスナック的なところで、母は働いていた。
祖母も当時の女性にしては珍しく、外へ出て稼ぎ、母を育てていた。(ちなみに祖母は大正生まれの98歳だ)
だからか、小さいころから貯金の大事さを教えられた。
「遣う」よりも「貯める」ことの重要性を説かれて育った。
何かをするには常に金が必要で、そういう時モノを言うのは、コツコツと貯めていたお金だった。
私は小学生の時にもらったお年玉を遣わないで、定期に貯めてもらっていた。
私名義の定期には15万あった。
私が貯めたお年玉なんて、おそらく5万あるかないかくらいのはずだった。
だって小学生だし。(中・高はマンガやゲームなんかで散財していた気がする)
おそらく母が長い年月をかけて、余剰金をそこに貯めてくれていたんだろう。(ありがたい話だ)
それに加えて、当時の私は車の免許を取るためにコツコツ貯金していたので20万近く現金で持っていた。
あとバイト代が出た直後だったので、10万近く振り込まれていた。
そして残り時間で売れるものは売った。(二束三文やったが……)
結局、一番モノをいったのはコツコツ貯めたお金だった。
店長は働くことが好きだった。
だけど、貯金は苦手な部類に入るタイプだった。
ここから先、夫が亡くなるまでの17年、私はやはり母・祖母と同じ道を辿ることになる。